“うつ”で“ゲイ”なysyの【備忘録】

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大阪に住む『ゲイ』で『うつ』いろいろマイノリティーな男(35歳)の備忘録

統合失調症の母について - このブログを書いている奴の正体は…③ (ysy#44)

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はじめに

こんばんは。ysyです。

 

数ヶ月前、母から電話が数年ぶりにありました。

母も気付けば70代。

 

母にもしものことがあったとき、僕は母のことをどう受け止めるべきなのか?わかりません。

 

母への気持ちをや起こった出来事を自分の中でまとめたくて、今回文章にすることにしました。

 

あまり明るい話題ではないですが、よかったらお付き合いください。

僕を生んだ時のこと

僕は83年の秋に大阪で生まれました。

本当は、クリスマスが予定日でしたが、1ヶ月以上早く生まれました。


以前、誰かからか聞いた話によると、母は破水しながらタクシーで病院に向かい僕を生んだそうです。


生まれてしばらくの間、未熟児だったため、保育器で育てられたようです。
おっぱいが直接飲めないので、母は搾乳した母乳を度々持ってきてくれていたそうです。


搾乳はとても痛かったと、昔母が話してくれたのを覚えています。
母の努力の甲斐あって元気に育ちました。

僕が子供の頃の母と父の関係

4歳ごろから、近所の幼稚園に通いだしました。

 

母は専業主婦でいつも家におり、父は基本的に帰ってきていませんでした。
どうやら僕が物心つく前に、ふたりの関係は破綻していたようでした。

 

恐らく1ヶ月に一度くらいのペースで家に来る父。
生活費を渡しに来ていたのでしょう。

 

今思えば、いつも少し酒臭いのに車で隣の市から家まで来ていた気がします。

 

ふたりは会えばいつも罵り合い、家中にあるものを投げ合う程、仲が悪かったです。

 

ふたりのケンカは、あまりに恐ろしすぎました。

僕は一度、精神的ショックのあまり熱を出し、救急車で運ばれる…ということも…。

それぐらい激しいケンカでした。

 

しかし、たまに父も機嫌の良い時があります。

そういう日の夜は、母と父が同じ布団で休んでいました。

 

僕はいつもその隣で寝ていました。

昔から寝つきのあまり良くなかった僕。

仰向けのまま目を開けていると父に怒られました。

 

父は「早よ寝ろや」と僕に言います。

今思えば、機嫌の良い父は“夫婦の営み”を行いたかったのでしょう。

 

気分で早く寝かされたり、激しいケンカをして寝かせてくれなかったりする。 

そんな父のわがままで横暴な素振りが、子供ながらにとても不愉快でした。

 

仕方がないので目を瞑ると、“営み”が開始されます。

生理的嫌悪を感じずには居られませんでした。

 

父は機嫌の良いときだけ母と仲良くする。

そして、横暴な父を易々と受け入れ、幸せそうに微笑む母…

 

僕はそのときだけは、とても深く母を軽蔑しました。

嫉妬に狂う母

僕が小3にあがると、ぱたりと姿を見せていなかった父が、家に帰ってくることが多くなりました。

そして、僕を隣の市の焼肉屋まで連れて行ってくれました。

 

どういうわけか、父が経営する会社の事務のシングルマザーの女性と、その子供2人と合流してから焼肉屋に行き、一緒に食事をする…。


そして土曜日はそのシングルマザーS子さんの家に泊まり、日曜日の夜に自分の家に帰る…と言うのが恒例になっていました。

 

日曜の夜に家に帰ると、決まって母は嬉しそうな顔をしていました。

きっと僕をきっかけに父と復縁できるのではないか?と考えたのでしょう。

 

何週間かそんな日々を過ごし、ある日母が僕に尋ねました。

焼肉屋さんに行って、その後はどうしているの?

 

僕は素直に…

S子さんという人がいて子供が二人いる。
お兄ちゃんが僕のひとつ上で、妹は僕の2つ下。
その人の家に泊めてもらっている。

と答えました。

 

ついでに焼肉をS子さんの家族と一緒に食べていることも。

 

すると母は…

恐らく大きく期待を裏切られたのでしょう。

父が浮気をしていると思い、烈火のごとく怒りだしました。

なんでもっと早くそれを言わないんだ?
あんたもグルなのか?
あんたなんか生むんじゃなかった!!

と叫びだしました。

 僕の自殺騒動

そのとき僕は…
「母にとって自分は、父を引き止めておくだけの材料に過ぎないのかもしれない」
「自分は邪魔な存在なのかもしれない…」
そう感じました。

 

すごくショックで何日も暗い気持ちでした。
「死んだほうが良いのかもしれない…」
そんなことばかりを考えるようになりました。

 

そんなある日、友達と遊んでいたのですが、意地悪をされケンカになりました。

 

他の友達が暴れる僕を止め、仲裁にに入ると僕はヤケクソ。

どういうわけか走って校舎の階段駆け上がりました。

 

家にいると感じざるを得ない息苦しさがありギリギリの精神状態だった僕。

友達とちょっとケンカしたことで、リミッターが解除されてしまいました。

 

掛け上がった校舎階段の手すりから飛び降りようとしました。

 

「飛び降り自殺」をするつもりだったのでしょうが、圧倒的に高さは足りない…

恐らく3~4m程度の高さでしょうか?

 

そんなことをよく分かっていない僕はとにかく死にたくて、階段の手すりに足を掛けます。

 

意地悪をした友達は

「お前、そんな度胸もないくせによくやるわ!やれるもんやったらやってみろや!」

とはやし立てます。

 

飛び降りるつもりが、怖くて手すりを片手で掴む形になります。

 

宙ぶらりんの状態になり、指がすべると、そのまま下の階段に真っ逆さまという状況です。

 

そこへ担任の先生が現れ、僕を抱えて助けてくれました。

それからしばらく、担任の先生と一緒に帰宅し、そのまま家庭訪問を…という日が何日か続いたと思います。

母の心の病

そんな僕の奇行のせいか?
それとも父の身勝手な行動のせいか?

 

何故か母は少しずつおかしな行動をとり始めるようになります。

 

ある日、僕は飲んでいたお茶を、開きっぱなしの雑誌に誤ってこぼしてしまいました。
雑誌に印刷されていた芸能人の顔が水分で滲みます。

 

それを見た母は…

これは良くないことの前触れ…不吉だ

と言い出しました。


小4の頃の僕は

そうなのかなぁ?
怖いなぁ

と思っていました。

 

しかし、母の行動は日に日にエスカレート…。


近所の家に「私の悪口を言うのはやめろ」と怒鳴り込みに行ったこともありました。

 

だんだん僕は母が正気ではないことに気がつき始めます。


隣と言っても一軒屋。

お隣さんが家の中で母の悪口を言ったとしても、聞こえるはずないからです。

 

何か聞こえない?ほら…ピィー…って音がする。あ!きっと盗聴されてるんだわ

エアコンの…ほらあの隙間!あそこから誰か覗いてる!

 

そう言っていろんな場所をテープや新聞紙で目隠ししまくっていました。

なので、炊事、洗濯、掃除など…母は一切の家事ができない状況になっていきました。

 祖母と母

その状況を見かねたのが父方の祖母でした。


祖母は僕の住む家の近くのアパートで一人暮らしをしていました。

 

僕の住む家にある父方の祖父(祖母の夫)の仏壇にお経を唱え、お供えをするために、調子が悪い日を除いてほぼ毎日訪れていました。

 

祖母と母と僕は、僕が物心つく前、もともと一緒に住んでいたようです。

 

しかし祖母は母と折り合いが悪く…

私がおるとこの家は手狭でしょう

と別のことを理由にして…

 

もともと祖母の夫(父方の祖父)の残した家であったものの、なくなく一人暮らしを始めることになりました。

 

祖母がお参りに来なくなると、僕が祖母の家に行き様子を見に行ったりしていました。
(心配なのもありましたが、正直お小遣い目当てと言う打算的な部分もありました…w)

 

いや、ちょっとな、脚が浮腫んで浮腫んで…。あとは大丈夫や。家のことはできるさかい。ひとりは気楽でエエでぇw

と、心配するのがアホくさくなるぐらい呑気な祖母でしたw

精神疾患に対する家族の無理解

祖母は僕の住んでいる家の状況が刻々と変わっていくのを目にし…

あの家系(母方)は、気のおかしい家系なんとちゃうか?えらいもん嫁にもろてから…

と話していました。

 

今となっては有り得ない失言ですが、今から100年ほど前に生まれた祖母にとっては、ごく普通の感覚だったのでしょう。

 

母はどんどん正気を失い、僕は家でご飯を食べたり、お風呂に入ったりすることが難しい状況になりました。

 

祖母の家で祖母の料理を食べたり、銭湯に行くお小遣いをもらって銭湯に行ったりしていました。

(祖母の家には風呂がなかったので…)

進行する母の統合失調症

僕が小5にあがった頃。
母は錯乱状態躁状態のどちらかのパターンでした。

 

錯乱状態のときは、夜もあまり眠らずに爆音美空ひばりや僕のよくわからないクラシック(激し目のやつ)を流し続けることが多く、躁状態のときはおウチの財布事情に似つかわしくない高価な買い物をすることが多かったです。

 

例えば、お高いアクセサリーや化粧品など…

 

なぜそんなに浪費するのか聞くと

お父さんのために魅力的でいなければならないから

と答え買い物をやめることおはありませんでした。

 

母はお金が足りなくなると「父が家にお金を入れないから」と言い、実家にお金を無心していたため、母方の家と父方の家はとても仲が悪かったです。

 

唯一の頼みの綱である祖母は、年金暮らしの独居老人。
80を越えた後期高齢者で足の浮腫みなどで歩くのがしんどいかったり、腎不全で透析をしていて、明らかに体調が悪そうなことが度々ありました。

 

なので、祖母に甘えすぎることもできないし、母は食事やお風呂や睡眠を邪魔する…

父は面倒くさがって家と距離を置く。

 

誰も母の病気の進行に気づいて医療機関への受診を勧める者はおらず、残念ながら本人も自分が病気であるという認識はありませんでした

母の入院

 それから、しばらくすると母は一切の家事ができなくなり、躁状態というより錯乱状態であることが多くなりました。

 

もちろん外出さえ困難。

そんな状態にまで、病状が進行していました。

 

僕が何か彼女に対して、否定的なことを言うと包丁を持って追いかけられたこともありました

 

正直、いつか殺されるのではないかとビクビクしていました。

 

もちろん身体の悪い祖母はさらに恐怖を感じ、僕の住む家に来れなくなりました。

 

危機感を感じずにいられなかった祖母は、父に何度も何度も電話…。

 

やっと父が、重い重い腰を上げます。

 

父は僕の住む家に乗り込み、力ずくで母を連れ出します。

病院なんていかないわよ!離して!

 

……………。

……………。

 

大きな声で喚いている母を僕と祖母は、近所の塀の脇からそっとのぞき、見送りました。

 

祖母も僕も「せいせいした」と言う感じでした。

とても酷い話だと思います。

 

母は僕のために辛い思いをして産んでくれたのに、その息子が思ってはならないこと。
でも、そう思ってしまいました。

 

祖母はアパートを引き払い、僕の暮らす家(とは言っても元々祖母の家ですが…)に引っ越してきてくれました。

 

祖母との二人暮らし。
今まで食べていたものと大きく味付けが違う…
そんな“贅沢”な悩みのみで、やっと平穏を取り戻せました。

退院後の母

正直、この頃の記憶は僕の中でとても曖昧なのですが、中学生になった頃、一度母は退院をします。

 

入院治療が必要なくなったから…

というよりは、高額な医療費を払えずに強制退院となったためでした。
(おそらくこの時代は今ほど福祉的手当が充実していなかったのかもしれません)

 

祖母と僕の二人暮らしの家に母が戻ります。

 

錯乱状態で恐ろしかった母は、嘘のように大人しくなり、ほとんど言葉を発しませんでした。

 

まるで活気のない操り人形のような動き方で朝起き上がり、顔を洗い朝食を食べ、また床に着く…

 

祖母は母のことを「怠惰だ!!」といつも罵っていました。

 

目もうつろな母は、薬の副作用で唾液が過剰に分泌。

口からよだれが垂れてしまうため、常にティッシュを咥えていました。

 

一度、僕の家に遊びにきた友達がいたのですが、そんな母の姿はあまり見せたくなかった…。

 

ほとんど布団で寝てているし、鉢合わせすることはないかと思い、招きました。

 

どういうわけかそのタイミングで、何か用事があったのか母は布団のある部屋から出て歩きだします。

表現は悪いですが、映画に出てくるゾンビのような、のそぉ…っとした歩き方で。

 

友人は母の姿を目にして…

あれ…お前のお母さん?
………………………。

と絶句していました。

 

ティッシュを咥え、よろよろと曲がった背中で力なく歩く母の姿は、以前とは見違えるようだったからです。

 

まるで祖母よりも元気のない“老婆”のようでした。

 

母は僕からも祖母からも冷たくされて居場所がありませんでした。

もちろん祖母と母の折り合いは悪いまま。

 

しばらくして、父方の親族と母方の親族で母の身柄をどうするか?話し合いが行われ、母は僕が住む家から姿を消しました。

 

恐らく別の病院に入院したんだったと思います。

離婚と生活保護

僕が19歳のときでした。

僕は当時仙台でひとり暮らしをしていたのですが、生まれた大阪の街から一通の手紙が届きました。

 

何かと思って中身を確認すると…

あなたの母親が生活保護の受給を望んでいますが、あなたに扶養する力はありませんか?

あなたとあなたの母親は法律上親子ではありませんが、血縁上親子であるかと存じますので、養ってもらえませんか?

という内容だったと記憶しています。

 

ちょっと意味がわからない…どういうことだ?

事の真相を確かめるべく、母の実家に電話します。

 

どうやら僕が知らないうちに、父と母の離婚が成立


離婚するように母の姉が説得したようです。


僕の籍は父親のほうに入り、法律上母とは他人になっていたようです。

 

離婚後、父と僕は母の入院費を払う必要はなくなるし、母方の実家も母を養う義務はなくなる…

 

母をあえて法律上孤立無援にすることで、生活保護を受けやすい状況をわざと作ったようでした。

 

母が生活保護を受けることで、生活にかかる費用も医療費もすべて国が賄ってくれます

 

僕としては、せめて事前に状況を説明してほしかったと訴えますが、母の姉はカナキリ声をあげて僕の話を聞いてくれませんでした。

 

結局、口げんかをするだけになり、それ以降ほとんどその伯母とは口を利いていません。

 

生活保護のお陰で、母の周りの人間は誰も経済的負担を背負わなくて済むようになり、もうすぐ16年以上が経ちます。

 

このブログを見ている人の中には…

なんて薄情で無責任なんだ。自分の母親なのだから、できる範囲で最低限面倒をみるべきだ!!

 というご意見の方もいるかもしれませんが、そんなことをしていては、僕自身充実した人生を歩めなかったかと思います。

 

あえて両親と距離を保つことでバランスを保っていたからです。

 

正直、年収が一億以上あったとしても、母の面倒はみたくないかもしれません。

わがままかもしれませんが、関わりたくないしこのまま距離をおいていたい…

というのが本音です。

なぜ両親と会わないのか

なぜ両親と会わないのか?

答えは簡単で、僕が「あまり会いたくない」と思っているのと、彼らが僕に「会いたいと言ってこない」からです。


ところが5月に数年ぶりに父から直接電話がありました

内容は…

昔、母親のことで迷惑を掛けて申し訳なかった。
実は終活をしているから、良かったら協力してほしい。
お前にもいくらか財産を残せると思うから…。

というものでした。

 

正直、財産なんてどうでも良いから放っておいてほしいというのが本音でしたが、たしかに生みの父であるし彼も高齢者。


協力すべきかもしれないと承諾。

 

兵庫県のとある街で会う約束をしました。

が、当日になってキャンセルされました。


理由は…

今日はめまいがするから

ということでしたが半年経った今も、とくに向こうから連絡はありません。

元々いい加減な父です。
本当にめまいがあったのかも怪しいところ…


6月には珍しいもので今度は母から数年ぶりに連絡がありました。
たしか、大阪北部地震のあった日から1週間後ぐらいのでことでした。

 

なんでも今の家を引っ越したいとのこと。

 

生活保護を受けているわけですから、そんなこと簡単にできるわけがありません。

理由を聞くと、好きな人がいてその人の近くに住みたいから…とのこと。

 

その男性とは内縁の関係で、男性のご親族の方が亡くなったので遺産が入ったから、一緒に近所に引っ越して住もうと思う…
とのことでした。

 

別に一緒に住めばいいし、結婚をすればよいのではないか?

と僕が言うと頑なに…

それはできない

と言い、理由は教えてくれませんでした。

とにかく引っ越しをするので、保証人になってほしい!!

…とのことでした。

 

あまりに突拍子もない言葉の数々に、何を言えばいいのか分からず…

僕はその男性のことよくわからないから、今すぐ協力するとは言えない。
ふたりでよく話合ってもう一度検討をしてほしい。
僕はその男の人に会わないと保証人になるかどうかは判断できない。

と答えました。

 

すると母は…

それもそうやね。わかったわ

と電話を切りました。

 

そして特にそれ以降、母からも連絡はありません。

 

恐らく本当に何か用事があるときにしか僕と話したくないんだろうな…

と改めて思いました。

いつか訪れる両親の死

とはいえ、恐らく僕より先に両親が先に、この世を旅立つでしょう。

 

その時、僕は彼らの死をどう受け入れるべきなのか分かりません。 

 

すごくエゴイスティックに聞こえるかもしれませんが、彼らが亡くなったとして、もしかしたら涙一つ流せないかもしれません。

 

ホッとしてしまうかもしれません。

 

人として最低かもしれませんがそれが僕の本音です。

 

僕は現在、体調に波はありますが心は比較的元気です。

抑うつ状態で休職中。時間ならある…

 

彼氏がある日

ysy君のお母さんに会ってみたい

と言ったので、この記事に書いた内容の話をしました。

 

ysy君のコンディションが良いときにでも、一緒に会いに行ってみない?

と言ってくれました。

 

もしかしたら、今僕は過去の出来事を清算する時期にあるのかも知れない…

たまにそんなことを考えています。

 

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